あなたはご自分の「語い力」に自信がありますか?
人間の世界観は、その人が持っている言葉(語い)の数によって決定される。
そんなことを言う学者もいます。
極端な言い方をすると、
理解している語いの量が少ない人は、思い描ける世界観が狭くて小さい。
理解している語いの量が多い人は、思い描ける世界観が広くて大きい。
…ということです。
わかりにくいので、例を挙げて説明しますね。
「今ね、うちの庭にコスモスの花が咲いているのよ。すごくキレイなの。」
そう誰かが言ったとしましょう。
もしも…です。
「キレイだ」という意味だけはわかるとして、「コスモス」「庭」「花」「咲いている」という言葉の意味がわからない人がいるとします(その人を仮にAさんとしますね)。
Aさんは前出の言葉を聞いたとき、「S△A$Z◎gU3M□…。キレイなの」という感じで頭に入ってきます。
「庭」も「コスモス」も「花」も「咲く」も、Aさんは知らないので、その単語を使われても理解できません。
まるで解読不能な記号のように響くでしょう。
「花」という単語がわからないので、当然、花の持つ美しさや可憐さなどもAさんの中には「存在」しません。
言葉を知らないということは、それだけ思い描ける世界が小さく限定されたものになるのです。
「今ね、うちの庭にコスモスの花が咲いたのよ。」
Aさんとは異なり、「庭」・「コスモス」・「花」・「咲いた」という言葉が理解できる人は、話の情景を想像することができます。
正確な形などの細部までは想像できなくても、その情景をイメージすることができるでしょう。
私なら、濃いピンク色のコスモスの花がユラユラと風になびいている様子が思い浮かびます
皆さんも同じようにイメージできるのではないでしょうか?
ところが、
「今ね、うちの庭にメタカンコンの花が咲いたのよ。」
と言われたらどうでしょう?
何かの花が咲いたということは認識できても、その「メタカンコン」がどんな花なのかわかりません
どんな色なのか、どんな形なのかもわかりません。
庭に何かの花が咲いている。
でもどんなものかはわからない。
思い浮かべようにも、砂嵐がかかったような「曖昧」なイメージしか浮かんできません。
知らないので、「メタカンコン」とコスモスを比較することもできません。
ましてや、メタカンコンを人に説明することもできません。
「それは何だろう?」と求めて明らかにしない限り、単語は自分の中に残らず、すぐに消え去ってしまうでしょう。
「言葉を知らない」ということは「イメージできない」ということです。
そして、私たちは「知らないもの・イメージできないもの」を自分の世界観の中に配置することができません。
小学生の国語力は、この「語い力」が成績に極端に反映されます。
教科書の文章やテストの問題文も、使われている言葉がわからなければ「曖昧でぼんやり」した記号にしか映りません。
逆に、
本を読んでいる子。
大人とたくさん会話をしている子。
ニュースや情報番組を頻繁に見ている子。
彼らは、言葉をたくさん知っています。
語い力があると、それを武器にして物事を「思考」することができます。その結果、自分の世界観も広がります。
語い力がないと、物事を思考するための「材料」が不足しているので、考え方が一面的かつ曖昧になり、世界観も狭いまま…。
語い力のある子とない子。
どちらが国語が出来るのか、火を見るより明らかですよね
言葉をたくさん理解して、語い力を身に付けること。
そして、その語い力を使って思考できること(実はこれにも然るべき練習が必要ですが…)。
自らの世界観を広げて、深く広く思考するためにも「語い」は必要なのです。
今回は少し固めの文章でしたね…
わかりにくい部分も多かったのではないでしょうか??
次回は「私の出会った生徒たち」をアップしたいと思います