塾長ブログ

創作文コンテスト大賞作品

今週から始まった「創作文」学習。今回は昨年度の大賞作品をご紹介します(みがく通信にも載せたので、既に読まれた方はごめんなさい!)。長い作品なので途中、何ヵ所か省略させてもらいました。ご了承ください。

「旅は道連れ、世は情け」E.M(高2)


 宇都宮駅の三番線に、東京行きの普通列車「しずか号」が停車している。古くて歴史を感じさせる車体。ベタベタに塗られた濃い茶色の塗装が太陽の光で照り返っている。「俺は今までどんな強い紫外線や豪雪にも耐え抜いてきたんだぜ。」とでも言うように。


 波多野千恵子は、その列車の座席に腰を下ろして11時35分の出発を待っていた。宇都宮駅内は人がまばらで、電車に乗り込む人数も少ない。ただ列車のディーゼル音だけがホームに響き渡っている。千恵子は、列車の窓からぼんやり外を眺めていた。日差しが暖かい。もうすぐ満開になりそうな桜の木や、隣に停まっている列車──。栃木は何もかもが平凡だ。

 時は大正10年。大正デモクラシーという言葉が世間を賑わせ、日本が経済成長を遂げていることを国民全体が実感している時代だった。モボ・モガと称される個性的な若者も出現し、洋服で銀座の街をブラブラ歩く。近代化イコール幸福であると誰もが信じ、浮足立っているように見えた。


 千恵子は19歳。自分は時代の波に乗れていないと感じていた。栃木の辺境地で親の家業である農業を手伝いながらのほほんと暮らしてきたのだ。今巷で何が流行しているのかも分からないし、知る術もない。腕を露出する洋服もこの頃登場したようだが、それでも千恵子は着物を身に纏っていた。それだけに、昨年宇都宮から東京までの列車のアクセスができた時には、とても嬉しかった。これで東京に出向くのが簡単になる。憧れの地がぐんと身近になった喜びは計り知れないものであった。しかし、このような近代化の恩恵を嬉しく思う反面、心に一抹の不安が残る。言葉に表せないこの気持ちは何だろう。



 今日は、東京に住んでいる叔母に以前借りていた着物を返しに行く日である1人で行くとは言え、到着に合わせて駅まで叔母が迎えに来てくれるので安心だ。「東京駅は人がわんさかいるのだから、押し潰されないように気をつけなさいね」と何度も念押ししていた母の顔が浮かぶ。

 

シューッ。列車が大きな音を立て
た。「やっと東京に行けるわ。」と満足に浸って周りを見渡すと、三等車の乗客は数人しかいなかった。静かな車内だ。そしてガタンッと一度大きく揺れ、列車がゆっくり動き出した。

「いよいよ出発だわ。どんな街なのか気になるわ。」

 列車は終始のろのろと進んでいく。ガタンガタンと列車の奏でる一定の音が眠りを誘う。出発直後はわくわくして目を輝かせていた千恵子も、いつの間にかうたた寝をしてしまっていた。


 千恵子がこくりこくりとしていた間に、いくつもの駅を通過したらしい。いつしか列車は埼玉県に突入したようである。そして大宮駅に着いた時、多くの人が列車に乗り込んできた。千恵子はそのガヤガヤとした声ではっと目が覚めた。いよいよ東京に突入だ、と再び胸を躍らせていたその時、

「もしもし。向かいの席、よろしいですか。」

 と斜め上から声がした。千恵子がびっくりしてはっと振り返ると、地元では見たことのない、端正な顔立ちの紳士だった。五十代くらいだろうか、黒いコートに帽子、髭をたくわえて高級そうな革の鞄を携えている。千恵子は驚きのあまり声を出せなかった。代わりに必死に首を縦に振って応じた。冷たい汗が額に吹き出てくる。きちんと着込んでいた着物が急に重く感じられた。紳士は爽やかに微笑んで座る。千恵子はなぜか緊張してしまっていた。単に知らない人が向かいに座っただけなのに、そんなに取り乱さなくたっていいじゃないか──。些細なことで極度に緊張する自分が情けなかった。これが田舎育ちということなのか─。 

    

さて、その紳士は特に何をすることもなく座っている。千恵子は紳士の顔をまともに見ることができずにいた。顔をじっと見ると、不審がられるかもしれないと思ったからである。かと言って、あたふたした素振りを見せても怪しがられるだけなので、冷静さを装って窓の外を見ていた。すると目に入ってきたのは幾多の車の列。今まで見たことのないその光景に千恵子は衝撃を受けた。またもや軽くパニックになって、より一層汗が止まらなくなった。慌てて表情を整え、咳払いをしてからハンカチで汗をぬぐう。


 列車はいよいよ東京へ。「もう少しで到着だわ。景色が変わってきたもの。」と千恵子がホッとした矢先。紳士が尋ねてきた。

「お嬢さんや。すいません、わたくしは東京の土地勘がない者で、銀座の辺りで何か良いところはご存知ないですかねえ。」

 いかんせん千恵子は栃木出身である。銀座のことなど詳しく知る訳がない。でも、これを理由に会話を終わらせるなんてもったいない気がした。そこで、以前叔母に教えて貰った場所を勧めることにした。

「銀座三丁目に由緒あるフルーツパーラーがありますの。看板が大きいから、すぐにお分かりになる筈ですわ。そこはいかがです。」

 千恵子はなるべく地元の訛りが出ないように、普段より少し高めの声で話した。紳士はほうほうと納得した表情で、

「なるほど。そうですか。他に、買い物ができるような百貨店などは無いですかね。」

 栃木にはデパートというものがひとつも存在しない。自分が行ったことも無い場所を人に勧めるのは不自然で仕方なかった。しかし、百貨店も叔母から知り得た情報で全く知らない訳ではない。

「銀座四丁目に、ひと際大きい館がありますわ。そこは三越といいまして、服やらお土産やら色々買えますし、便利ですよ。」

 紳士はさっきよりも大きく頷いて、感心したように千恵子のことを見つめる。千恵子は気恥ずかしくなって目をそらした。

「あなたは、恥ずかしがり屋さんなんですなあ。さすが、都会の子はおませさんだ。」 紳士はそう言って上品に笑う。

 あなたの方こそ、都会の方じゃないですか。私なんて栃木に住んでおりまして、この後東京駅に到着してもどっちに進めば良いのか分からんのです。……まさかそんな事は言える筈もなかった。そのうち、少しばかり続いた会話も途切れ、沈黙が訪れた。


 しばらくすると紳士は、分厚い辞典のような書物を広げて熱心に読み始めた。表紙を見ると、日本文学全集とある。果たして、この紳士は文学に携わっている人なのだろうか。あるいは大学で立派な論文を書いている人なのだろうか。栃木で「働く」といえば農業か工場勤務だったので、大学に進学という考えそのものが無い。ああ、やはり私の街は確実に時代遅れなのだと思い知らされる。自ら生まれ育った地を卑下する必要は無いと思うが、自身が時代の第一線を歩けていないという事実が悔しかった。


「まもなく東京に到着です。お忘れ物の無いように。」

 車掌がそう告げに三等車へ来た。乗客はゴソゴソと支度を始める。

「いよいよ夢の東京の地に降り立つのだわ。」

 と顔をほころばせていると紳士が私をちらっと見た。戸惑っている千恵子をよそに、彼は何かを差し出してきた。

「これ、銀座の情報を色々教えていただいたお礼といいますか。少しなのですが、よかったら受け取って下さいな。」

 紳士の手にあったのは、金色の包み紙に入った小さなチョコレートだった。キラキラ光る包装と英語のデザインがいかにも高級そうである。千恵子はそれがチョコレートだということは分かったが、はっきりとした味は知らなかった。甘いのか、苦いのか。幾分か大福の方がいいと、その時は思った。

「あら、こんな高価なもの、良いのかしら。ありがとうございます。大事にいただきますわ。」

 と謙遜気味に言ったが、内心は思いの外、大きく揺れていた。


 東京駅に到着して、列車の重たい扉が開くと、一斉に人が降りて行った。紳士も千恵子に品を渡すと、じゃ、と軽く手を上げて去っていった。千恵子は彼を追いかけるようにホームに降りたが、もうそこに紳士の姿はなかった。東京に降り立った嬉しさよりも、予期せず訪れた列車内での出会いの余韻が、心の中にじんわりと広がっていた。

 

東京駅にはずっと向こうまで列車が止まっていて、ホームからはみ出しそうなくらい人がいる。アナウンスと乗客の声が共鳴したなんとも言えない音が、千恵子の耳をついた。千恵子は押し寄せる人波を泳ぎつつ、やっとのことで改札を出る。叔母の姿はまだない。そこで千恵子は出口の隅の方で、懐に入れてあった例のチョコレートを取り出し、急いで開封して口に入れた。その瞬間、

「これは都会の味だ。」 と千恵子は思った。今まで食べ慣れてきた大福の甘さとは一味違う。異国の味だ。今の段階できっとこれが流行の最先端の味であるに違いない、と確信するほどであった。チョコレートの味に満足した所で、初めて千恵子は外の景色を見る余裕が出てきた。

「わあ……。すごい。」地面から高くそびえる趣深い建物の数々、狼狽するほどの車の数、絶え間ない人の往来。横断歩道が青になった瞬間、一斉に人が歩き出す。どれも千恵子が見たことのない、目新しい光景だった。これが東京の姿であろうか。千恵子は胸を躍らせて叔母の迎えを待った。一方で千恵子は、いつまでもかの紳士の存在を忘れることができないでいた。汽車の中で出会った彼のことを思い出してぼうっとしていると、後ろからドンと肩がぶつかった。ふと後ろを見ると、人が駅構内にすし詰めになっている。もはや誰がぶつかったのかも分からない程の人ごみ。あまりの異世界に、動機が激しくなるのを感じた。<
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東京に来てから数日が過ぎた。千恵子は叔母の家で厄介にならせてもらっている。

「千恵子、どうだい。東京には慣れたかい。」

「うん。まあね。でも、東京ってすごいよ。建物はてっぺんが見えないし、栃木にはない店ばかりあるのよ。」

「そうかい。でもね、長年こうして都会に住んでいたら、ふとした時に田舎に行きたいなあって思うのよ。」

 千恵子は苺を食べながら叔母の話を聞いていた。(中略)

「でもね、東京に住んでいたら色んな人に会えて刺激的よ。千恵子の住んでいるところなんて、町内会の人はみんな顔を知っているでしょ。でも東京は違う。人口が多いってそういうことなのよね。それにしても、東京駅はものすごい人ね。思い出しただけでも頭が痛くなっちゃうわ。すごい所だけれどどこか怖い。東京は良い所だか悪い所だかさっぱり解らないわ。」

「それが東京ってもんさ。」

 しばらくダラダラと新聞をみていた千恵子は、その中に「大正デモクラシーの功罪」というタイトルのコラムを見つけた。


【先日、東京へ向かう列車に乗っていた時のことだ。向かいに座っていたのは、最近ここら辺ではだいぶ見る機会が減った、着物に身を包んだ少女だった。僕に銀座の名所を丁寧な言葉で教えてくれて、大変助かった。大和撫子と呼ぶに相応しい少女だった(略)最近東京を中心に交通などの近代化が著しいが、あまり急進的すぎると様々な弊害をもたらすだろう……】


などと続く文章である。その筆者は、最近売り出し中の作家、有島武郎であった。千恵子はすぐにピンときた。

「え……、あの時の紳士が、最近話題になっている有島先生だったなんて……。しかも私の事を大和撫子だなんて、嘘、嘘よ!」

 千恵子は驚きを隠せなかった。新聞を持つ手が震える。

 先日、列車の中で会った紳士は、やはり普通の人ではなかったのだ! 私の目は正しかった。文学をきわめていらっしゃる、聡明で品のある男性──。あの端正なスタイル、口調、持ち物が一般人とはどこか違うと感じていた。また、有島が書いた新聞のコラムはまるで千恵子の心の「モヤモヤしたもの」を代弁しているように感じて二重に驚いた。


こうして千恵子は東京での滞在中、列車の中でのあの偶然の「出会い」の感慨に浸っていたのだった。


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