何十年、時を経た今でも、チクリと痛む心の傷があります。
小学4年生の頃でしょうか。
当時、一緒に登校していた友だちを家まで迎えに行くことが、私の毎朝の日課でした。
その日も、朝露残る通学路を歩いていると、後ろから大きな声がしました。
「おはよう!」
同じクラスのMくんです。
Mくんは、先天性のダウン症を患っていました。
…突然、声を掛けられた私はびっくりして、「うん」と小さく頷いただけで行き過ぎてしまいました。
ただ頷いただけ。
本当にそれだけのことでしたが、私の反応が嬉しかったのでしょう。
その翌日から、Mくんは毎日私に「おはよう!」と元気いっぱいに声を掛けてくれました。
照れ臭いのもあり、ぎこちない笑顔で頷くのが精一杯の私でした。
それでもいつの頃からか、挨拶することに私自身すっかり抵抗もなくなって「おはよう」と笑顔で返すことが普通になっていきました。
2人だけの秘密のようで、少しドキドキしたりもして。
時は流れ、私たちは中学生になりました。
真新しい制服に身を包み、新たな通学路を行きます。
Mくんは養護学校へは行かず、私たちと同じ中学校に通うことになりました。
初登校の翌日のこと。
その日の朝は、いつもと違う友だち2人と一緒に学校に向かっていました。
どんな理由だったのか覚えていませんが、中学に入った頃から一緒に登校する友だちが変わったのです。
おしゃべりしながら、学校に向かう私の頭に、ふとMくんのことが浮びます。
『今日もMくんに会うかな。きっとMくんは私に挨拶をするよね…。2人に聞かれたら恥ずかしいな』
憂鬱になっていた私の視界にMくんが歩いてくる姿が目に入ってきました。
『おはよう、って言わないで…。お願い!』
Mくんとすれ違うとき、咄嗟に私は目を伏せました。
目を合わさないよう、下を向きます。
「おはよう!」
やっぱり今日もMくんは私に声を掛けてきました。
友だちが「えっ、?」と小さな声で呟いて、私を見ます。
私は、Mくんの声にも友だちの視線にも気付かない振りをして、取り繕うようにおしゃべりを再開しました。
『無視しちゃった…』
結局、振り返って、Mくんの様子を見ることもできませんでした。
Mくんは病気のせいで、一部の周りの子からいじめられていました。
それでもMくんは滅多に涙を見せず、いつも笑顔でした。
からかっている男子たちや、敬遠している女子たちを見て、私は彼らを軽蔑していたものです。
私はMくんに対してそんな態度を決してとるまい。
そう固く決めてもいました。
それなのにこの日、私はMくんを無視したのです。
なんだか自分が「偽善者」に思えてきました。
もしかしたら、Mくんに挨拶をして「あげている」自分に酔っていただけなのかもしれない。
私は他の人とは違って思いやりのある人間なんだ。
そう思いたかっただけなのかもしれない。
そうだとしたら、私は「いじめている子たち」と何も変わらない。
いや、もしかしたらそれ以下かもしれない。
私は最低だ。
…当時の日記には、そう書き殴られていました。
何を大袈裟な、と思うかもしれません。
でも、繊細で多感な思春期の私にとっては、大きな負傷だったのです。
次の日から、私は通学の時間を大幅にずらしました。
Mくんに合わす顔がなくて、結局逃げ出したのです。
それ以降、Mくんと通学路で顔を合わすことはなくなりました。
何十年経った今でも、ふと頭に浮びます。
寂しそうな表情で私の後ろ姿を見送っているMくんの姿を。
実際には見ていないので、それは私の頭が作り上げた想像なのでしょう。
それでも、思うたび胸が痛くなります。
埃ほどのちっぽけなプライドや見栄が人を傷つけることがある、ということ。
人を傷つけると自分の心も同じように傷つくのだということ。
それを痛感した私でしたが、今それを「学び」と呼ぶにはあまりに傲慢で残酷な気がします。
同級生のMくん。
決して忘れさせてはもらえない、「罪の記憶」が今も私の中にあります。