私は日本の「言葉」が好きです。
日本では古来から、「めり(=ようだ)」「らし(=らしい)」「む(=ような)」…などなど、断定を避けた婉曲的な言い回しが多く使われていました。
曖昧表現を多用する日本人に対し、他の国から「意見がはっきりしない民族だ」などの批判的指摘を受けているようですが、確かに日本人には「八方美人」的な、「グレーゾーンを好む」気質があるのかもしれませんね。
でもその曖昧さ、私は決して嫌いではありません。
断定表現を避ける、という行為の背景には、日本人ならではの「細やかな機微」「優しい心遣い」が感じられます。相手にプレッシャーを与えないように…という配慮や、傷つけないように…という気遣いが、日本語の「曖昧表現」のベースになっているのだと私は考えています。
例えば、古語で「わろし」という表現があります。現代語訳は「良くない」。
はっきり「悪い」とは言わず、「良くはない」と婉曲的に表現した言葉です。
「(あんたが)悪い!」とキッパリ断定的に言われると傷付く人もいるでしょう。
言われて逆ギレする人もいるかもしれません。
そこを「悪い!」と言わずに敢えて「良くないよ」「良いこととは言えないよね」と柔らかくたしなめたほうが、素直に相手の心に響くこともあります。
似ているようでも両者はニュアンスが違います。
「わろし」や「よろし(=悪くない)」という言葉は、相手への思いやりが種となって生まれた言語表現です。
まずは「心」ありきです。伝えたい「心」があって、それを表現するために「言葉」を用います。それが大前提ですよね。
その心を伝える手段として言葉があり、「言霊(ことだま)」という表現に象徴されるように、大きなパワーを備えています。
一生に渡って自分を力づけ、勇気づける拠り所になるのが言葉の力なら、何年経っても癒えない痛みを心に刻み込むのも言葉の力です。
言葉は、人を癒す薬にもなれば、傷つける凶器にもなります。
それだけ言葉の影響力は大きいものです。
私もまだまだ未熟者です。
不用意に言葉を発してしまってから後悔することも多いのが現実です。
だからこそ、言葉を凶器ではなく「薬」や「癒し」として使える人間になれることをいつも願ってやみません。