怒りは「価値観の違い」からもたらされる。
何かの本にそう書いてありました。
「私だったら、そんなことを言わないのにどうして彼は…」
「私が若い頃はそんな性格じゃなかった。なのに、どうしてこの子は…」
これらは全て自分目線ですよね。
自分の「物差し」で人を見てばかりいると、自分とは異なる部分があったとき違和感を覚えます。
「私に無いものを持っていて魅力的な人だなぁ」と惹かれる反面、
「この人は、私とは考え方も行動も違いすぎる!」と敬遠してしまうこともあるでしょう。
また、冒頭の言葉に象徴されるように、「怒り」の火種になることもあるかもしれません。
だからと言って、「自分の物差し」を持つなというのは極端すぎます。
自分の物差し(基準や価値観)を持つこと自体は、必要なことです。
多少なりとも、みんな自分の物差しで測りながら生きているからです。
大事なのは、その使い方なのだと思います。
他人と自分は違う存在です。
我が子ですら、そうです。
どんなに気の合う友人でも、恋人でも、自分と相手は違います。
お互い、それぞれ自分の物差しを懐に忍ばせた「個」の存在なのです。
相手と自分は違う生き物なのだ。
価値観も基準も異なるのだ。
自分の物差しで相手を測ることはできない。
…それをきちんと理解しないといけません。
自分の物差しで測れるのは、自分自身だけです。
過去の経験や人との出会いから作られている、この物差し。
今の苦しみを乗り越えるために、過去を振り返り、
明日に向かって力強く歩き出すために、己の信念を再確認する。
そんな道具として、この物差しはあると思うのです。
そもそも、普遍的でない(基準とするものが各々違う)物差しで、他人は測れません。
どんなに近しい間柄でも、相手は自分ではないからです。
たとえ相手が我が子でも、1つの「個」として、自分の物差しを持つ存在なのです。
お互いにそれを認め合い、尊重し合って初めて、相互理解への道が開けてきます。
それこそが、「コミュニケーション」の土壌となる考え方なのではないでしょうか。
勿論、口で言うほど簡単なことではありません。
私自身、自分の物差しで人を見てしまう場面が多々あります。
でも、本当にその人と長く付き合っていくためには、いくたび自己嫌悪に陥ろうとも乗り越えなければならない課題なのだ。…そう真摯に受け止めています。