カフェランチ。
今日は『国語教科書の闇』(川島幸希 著:新潮新書)を読了しました。
高校国語の教科書はどのようにして編纂されているのか。どの教科書も「羅生門」「こころ」「舞姫」「山月記」などの定番作品を毎回採択するのにはどんな意味があるのか。
筆者ならではの切り口でそれらの疑問を紐解いていくという内容です。
確かに、「羅生門」や「こころ」などを掲載していない教科書に出会ったことがありません。
これらの作品は戦後から教科書に登場しはじめ、1980年頃から定番作品としての地位が確立したそうです。
これら定番作品には、「人間は自己本位な生き物である」という共通した主題があります。
高校生に「エゴイズムはいけませんよ」と道徳的に学ばせるためにこれらの作品を定番化したという説を挙げつつ、筆者はそれに肯定はしていません。
私自身も生徒に指導する際、「人間の持つ利己主義」について必ず触れはしますが、「それはいけないことですよ」とお説教のように説いたことは1度もありません。教科書内の作品から筆者のメッセージを丁寧に汲み取り、表現を砕きながら、生徒に理解してもらうこと。そして、生徒自らがその作品から何かを感じ取ってもらうこと。それが教科書を用いた際の国語指導だと思っているからです。
私も長年疑問でした。どうして高校の教科書はつまらないのだろうと。定番の作品にも時を経て残るだけの魅力はあると思っています。私は大学では芥川と漱石を専攻してきましたので、生徒たちにも二人の文豪の作品に多く触れて欲しいと思います。羅生門もこころも名作ですが、両者とも面白い作品はまだまだあります。
おどろおどろしかったり、友人が自殺したり、エゴの果てに虎になったり。暗くて救いのない結末が多くて、読んだ高校生が「面白かった」ではなく、「モヤモヤする」「よくわからない」という感想を持ってしまうのも無理のないことでしょう。
「古典的定番」作品は無くさなくてもいいので、現代の世相を反映するような作品をもっと積極的に採択してもらいたいものです。高校生の感受性を刺激し、深く考えさせ、小説は面白いものだなと再認識させるような作品を数多く掲載して欲しいなと思います。